書籍


だんだら


新選組


 

出版社:岩波書店/発売:2003年/著者:松浦玲

新選組一番組長 沖田総司の生涯


 

出版社:新人物往来社/発売:2013年/著者:菊地明

新選組解体新書


p.33 松山幾之助は、西国の動向を探るために岡山藩に潜入した。しかし、その情報が事前に漏れていたことから待ちぶせされ、備前勤王党に斬殺されてしまった。 長州出身の佐伯又三郎は、壬生浪士隊からのメンバーだったが、長州の久坂玄瑞に逆スパイと見破られて斬られたという説があるところをみると、長州藩の密偵でありながら、新撰組のために働いていたらしい。 村上謙吉は土佐陸援隊に潜入。二条城襲撃などの計画を事前に察知してそれを知らせていた。しかし、前から目をつけられていたので、坂本龍馬が暗殺された日に捕らえられ、土佐藩藩邸内で斬られた。

p.45 隊のはじまりは長州の奇兵隊だったといわれている。それまでは幕府や藩の公式な組織は「組」で呼ばれることが多く、新撰組や見廻組も幕府の期間としての役割が強かった。 これに対し高杉晋作は士農工商あらゆる階級から有志を集め、「正兵」に対し「奇兵」、「組」に対し「隊」をつけ、奇兵隊と名付けた非公式軍を編成した。

p.72 オランダ式築城法をもとにした五芒星「★」の形は、攻撃の際四方に死角なく攻撃できるように考慮されている。火砲戦も考え、塔は低く壁も砲兵隊を四方にくまなく配置できるよう設計された。 しかしすでに幕府の財政は疲弊していた。二重の城壁も半分ほどには塁壁がない。岩を切り、大きさをそろえて作られた塁壁も、一部は単に石を積み上げただけとなっている。いってみれば建築途中のまったく未完成品である。

出版社:光栄/発売:1997年/編集:Da Gama 編集部

新選組紀行


 

出版社:文藝春秋/発売:2003年/著者:中村彰彦

新選組キャラクターファイル


p.99 「月代」に長く髪を生やしたスタイルは「総髪」といいますが、これは武士以外の医者や陰陽師など、特殊な職業の人間か、もしくは社会のアウトロー、つまり世の常識を重視しなくていい人たちのみの髪型でした。しかし、幕末になって世の中が混乱してくると、「総髪」に「髷」を結ったり、ヒゲを蓄えたりする者も多く出てきました。

出版社:光栄/発売:2004年/編集:コーエー出版部

新選組局長近藤勇 士道に殉じたその実像


 

出版社:淡交社/発売:2003年/著者:木村幸比古

新選組クイズ100連発!


 

出版社:学習研究社/発売:2003年/著者:笠原秀

新選組組長 斎藤一


 

出版社:PHP研究所/発売:2011年/著者:菊地明

新選組決定録


p.18 勇もこうした経験から、十五歳の年に天然理心流に入門した。嘉永元年(一八四八)十一月のことである。

p.23 沖田家の伝承によれば、天然理心流三代目宗家の近藤周助のもとへ、沖田が入門したのは、わずか九歳のときのことだったという。

p.24 天賦ともいっていい沖田総司の最初の剣の煌めきは、唯一、沖田家の文書の中にこのように伝えられている。 剣法は天才的で、僅か十二歳にして奥州白河阿部の指南番と立合いたる時、勝を得たることあり。 さらに別箇の沖田家の文書には、この勝利によって、その名が藩中に籍々とかまびすしく流れたと伝えられている。わずか十二歳の少年が実力のある藩公用の指南番と対戦して勝ったというのは、尋常な出来事ではない。

p.26 『両雄士伝補遺』(明治三十年)には「十一歳にして江戸へ出、某商家に奉公す」という一文があり、逆算すると弘化二年(一八四五)のことになる。 土方が奉公に出たのは、家伝によれば上野のいとう松坂屋呉服店だったという。

pp.27-28 この二度目の奉公先は、江戸大伝馬町であるとの見解が、土方家のご子孫から出されている。さらにこの奉公は十七歳のときのことだったという。

p.32 記録に残される天然理心流の神文帳によれば、土方歳三が天然理心流に入門したのは、安政六年(一八五九)三月のことだった。

p.33 近藤は万延元年(一八六〇)に妻ツネをめとった後、文久元年(一八六一)に家督を継いで、天然理心流四代目宗家となった。

p.33 遅くとも安政七年(一八六〇)までに試衛館にやってきた山南は、近藤勇と立合いを所望し、打ち負かされて門弟となった。

p.36 小島鹿之助(為政)の日記には、十一月六日付で「石田歳三大病のよし」という一文がある。

p.41 近藤は、一月十九日には山岡鉄太郎に自邸に呼び出されていた。

p.42 二月五日、小石川の伝通院塔頭の処静院に浪士たちが集められた。

p.47 文久三年(一八六三)二月八日、近藤勇は試衛館道場の内弟子や食客たち、さらに日野や武州各地で天然理心流を習得していた門弟たちとともに、浪士組の一員として、中山道を上洛の途に立った。

p.48 翌九日、宿泊地の本庄で、とある事件が起きたという。 先番宿割の近藤らのひょんな手違いによって、芹沢の率いる小隊の宿舎の手配がなされていなかったのである。芹沢はこれに立腹した。そして、この場に野宿をすると息巻き、道に大きな篝火を焚いた。

p.56 二月二十三日、江戸を出立しておよそ半月後に、浪士組は京都に到着した。

p.61 清河八郎は結局、本人の自覚もないまま、京都であやうく一命を取り留めた。しかし、永倉が監督役と称した速見又四郎らによって、翌四月十三日に、江戸の麻布一ノ橋で暗殺されることとなる。

p.64 三月十二日の夜、近藤らに会津藩から受け入れを決定する通達が届いた。

p.66 三月二十五日、壬生を数名の会津藩士が訪れた。会津藩士たちは、十七名の八木邸メンバーと会い、近くの壬生寺で狂言を見物するなど、和やかなひとときを過ごした。近藤らの必死の初接待だったのだろう。このとき彼らは、会津藩から支給された金で誂えた着物を着ていたと記録にある。 その夜、殿内が殺害されている。

p.69 彼らが目をつけたのは、大阪今橋の両替商・平野屋五兵衛だった。そして三月末ごろ、近藤勇ら七名の隊士が大阪に下った。

p.70 四月二日に京都に戻り、さっそく、松原通り寺町下ルにあった大丸呉服店でオーダーメイドの制服を発注した。

p.71 粕谷は、三月末ごろに壬生浪士組を脱隊している。

p.71 阿比留は、両親のいる江戸への帰還を希望しながら八木邸に在留していたが、四月六日に不帰の客となった。

pp.72-73 四月十六日に黒谷へ向かった壬生浪士組総員は、松平容保の要請を受けて、御前で得意の武術の稽古を披露している。。

p.84 元治元年のことになるが、一月に徳川家茂は再度、西上した。このとき、土方歳三は隊士たちと、家茂が着船した大阪まで出動し、将軍の着船を出迎えた。さらにその後、京都までの道程を将軍の行列に加わって進軍した。

p.85 六月二日、大阪で不審な浪士が暗躍しているという報を得て、壬生浪士組の九名が下坂した。メンバーは、近藤勇、芹沢鴨、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、平山五郎、野口健司という組織の設立メンバーと新規入隊の島田魁である。 一行は翌三日に二名の浪士を捕縛し、町奉行所に身柄を渡した。

p.88 六月二十六日、京都千本通りで一人の浪士が殺害された。その名を植村長兵衛という。

p.88 七月二日、今度は大阪の天神橋の欄干に、別の浪士の梟首が出た。石塚岩雄というこの浪士は、大阪今橋の豪商方で壬生浪士組の組織名を偽って金策をしていた最中に、当の壬生浪士らに身柄を押さえられ、殺害されたという。

p.89 七月四日には、芹沢は大阪屈指の豪商・鴻池善右衛門から三十両の現金を受領し、また同月中に再び二百両の現金を受けている。

p.91 文久三年七月ごろのことだった。壬生浪士組にある奇妙なユニットが誕生した。そのユニットの名は「(隊中)美男五人衆」という。

p.92 佐々木愛次郎が八月一日に死亡してしまったのである。

p.92 佐伯又三郎は、奇しくも佐々木の殺害地の近くで、日もさほど遠くない八月十日に殺害されていた。

p.95 八月十二日、力士側は隊士たちに、壬生で相撲興行を開催することを承諾した。

p.95 八月十二日の夜、信じがたい事態が起きた。芹沢鴨が隊士三十五名をひきつれ、葭屋町通り一条下ルにあった生糸問屋の大和屋庄兵衛方を襲撃したのである。

p.97 八月十八日の政変、あるいは禁門の政変といわれるこのクーデターで、三条実美ら尊攘派の公家七名が京都を追われて長州へ落ち、尊王攘夷派は、京都の政局から一時、失脚することとなった。

p.103 田中の死没日は九月十三日だった。芹沢の暗殺の直前である。 この田中伊織こそ、新見錦の別称だった可能性が高い。

p.104 芹沢鴨の殺害日は、従来まで九月十八日と伝えられてきた。

p.106 野口健司は、この年の暮れ、壬生屯所で切腹して果てた。

p.108 九月二十六日、近藤勇は間者たちの排除を指示する。永倉や斎藤一らが屯所の中で結髪中だった御倉と荒木田に、一気に襲いかかった。

p.108 さらにこの日、間者であることが判明していた楠小十郎も同時に殺害された。

p.111 新選組は八月二十二日と二十四日に、木屋町界隈で大規模な捕縛活動を行なった。

p.117 文久三年十一月、土方歳三は、武州小野路村の小島鹿之助に一通の手紙を書いている。

pp.121-122 近藤勇は身体に疲労を感じるようになり、二月初めごろから温泉に湯治に出向いていた。近藤に休暇を命じたのは、京都守護職の松平容保だった。近藤の残した手紙によれば、湯治先の温泉は京都から「五十丁十六里」の地にあったとあり、兵庫県の有馬温泉あたりに比肩される。

pp.125-126 嘆願書提出から慰留までの顛末を国許に伝えた近藤の手紙には「局中しきりに男色流行つかまつり候」と綴られている。

p.127 大阪西奉行所に、内山彦次郎という与力がいた。大塩平八郎の乱の鎮圧に出動するなど、多年活躍した人物だったが、元治元年五月二十日、大阪天神橋上で何者かに殺害された。

p.131 四月十二日の夜、松原通り木屋町で火災が発生し、新選組はその際、通行人の妨害をしていた不審人物を捕えている。新選組は、長州藩邸の門番と自称したその人物を拷問にかけたところ、「長州人、京都へ二百五十人も入れ込み候」(『改訂肥後藩国事史料』)という供述を得た。

p.134 元治元年六月五日の早朝、新選組は四条小橋の薪炭商・桝屋喜右衛門方を急襲した。

pp.150-151 六月十日、新選組は捕縛した不審人物から、東山の茶屋・明保野に二十名の長州系浪士がいるとの自白を得た。

p.154 十九日に御所周辺で警備についていた会津兵や薩摩兵と衝突した。最激戦地の名をとって蛤御門の変、または禁門の変ともいわれるこの市街戦で、長州軍は多数の死者を出して敗走する。

p.155 翌二十日、差し迫る火勢により万一の事態が生じることを恐れた幕府は、六角通りにあった獄舎に勾留していた未決囚三十三名を緊急処刑した。

p.156 一行は伏見に一泊した後、二十一日に天王山攻略を開始した。

p.160 九月に入って、ついに、自ら江戸に下っての隊士募集に着手することになったのである。

p.165 永倉は江戸出立前に、近藤勇の日常態度を批判した建白書を会津藩に提出するという過激な事件を起こしていた。

p.168 元治二年(一八六五)一月八日、谷万太郎は兄で副長助勤の三十郎、門弟の正木直太郎、そして高野十郎の三名とこの店を急襲した。

出版社:河出書房新社/発売:2003年/著者:伊東成郎

新選組血風録 完全ガイドブック


 

出版社:PHP研究所/発売:2011年/編集:PHPエディターズ・グループ

新選組研究最前線(上)


 

出版社:新人物往来社/発売:1998年/編集:新人物往来社

新選組研究最前線(下)


 

出版社:新人物往来社/発売:1998年/編集:新人物往来社

新選組研究バイブル 新選組原論


 

出版社:新人物往来社/発売:2004年/編集:新人物往来社

新選組見聞録 維新前夜の京をゆく


 

出版社:京都新聞出版センター/発売:2003年/編集:京都新聞出版センター

新選組興亡史 幕末に青春を賭けた若者たちの軌跡


 

出版社:KTC中央出版/発売:2003年/編集:NHK取材班

新撰組五兵衛新田始末


 

出版社:崙書房出版/発売:2006年/著者:増田光明

新撰組近藤勇伝


 

出版社:NHK出版/発売:2003年/著者:山村竜也

新選組 「最後の武士」の実像


 

出版社:中央公論新社/発売:2004年/著者:大石学

新選組 斎藤一のすべて


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新人物往来社

新選組残日録


 

出版社:新人物往来社/発売:2007年/著者:伊東成郎

新選組三番組長 斎藤一の生涯


 

出版社:新人物往来社/発売:2012年/著者:菊地明

新選組実録


p.9 朝廷と幕府との「公武合体」の実現のために十四代将軍徳川家茂は、翌文久三年三月に上洛することになっていた。それに先立ち、江戸の浪士を集めて京都に送り、彼らに京都市中の取締りを行わせる。そうすることによって、将軍の上洛で手薄になる江戸からは浪士が減り、かつ京都の浪士を制圧できるという、浪士対策に手を焼いていた幕府にとって願ってもない“妙案”だった。

p.48 武家伝奏、つまり朝廷より隊名が下されたことになっているが、実際は会津藩が命名し、形式的に伝奏方をとおしたにすぎない。天明八年(一七八八)に会津藩が軍制改革を行ったさいに、藩主の本陣に控える一隊として「新撰組」が存在している。彼らは「諸芸秀俊の子弟」(『しぐれ草子』)より選抜されたという。彼らの労に報いてこの名跡が与えられたのであって、江戸で誕生していた新徴組に対応させた名称でも、まして隊士たちが考案したものでもない。 「新選組」は「新撰組」とも表記されるが、字義的には「選」が正しい。「撰」は基本的に手作業にかかわる場合の用字であるのに対し、「選」には「人材を選ぶ」「もっとも優れた人物」の意味がふくまれ、近藤勇の手紙にも「新選組」とされた印が押されている。ただし、会津藩の文書などには「新撰組」とされたものが多く、両者が混用されていたことも事実だった。

p.211 新選組の任務は再び箱館市中取締りとなり、隊士の日記には次のように記されている。 新選組長土方君、箱館取締りに任ず。故に我隊再び函館に至り取締りをなす。陸軍奉行副役相馬主殿(主計)、我隊に属してともに締をなす。町ごとに屯所を設け、夜巡邏を厳にす。(『戊辰戦争見聞略記』) 明らかに、この時点の隊長は土方であり、戦争が終わり平時となったことから、新選組は大鳥から土方の指揮下に入り、箱館政府の首都警察機能を果たすことになる。

pp.135-136 この「甲陽鎮撫隊」は、新選組隊士約八十名を中核とする部隊で「近藤は大名並みに長棒の駕籠に乗り、土方は馬上。烏合を狩り集めて約二百の兵を率いたが、(中略)甲州へ行くか行かぬかという相談会のあった時、近藤は将軍家の内諾を得たといって『甲州城百万石をとったら先ず自分は十万石、土方は五万石、沖田永倉は三万石、伍長級五千石、平隊士各一千石』と夢のようなことをいっていた」(永倉新八談『戊辰物語』)。 永倉の明治後期の回想談では、往時の夢だったが、甲州百万石の件は、当時の噂として徳川慶喜の内諾があったと、官軍側の書状の中にも記されている。

p.170 土方が負傷療養中ということもあり「吾々隊は元斎藤四郎(一)と申す古参人、仮に隊長となり」(近藤芳助書簡)の通り、新選組隊長には、京都時代に副長助勤で撃剣師範でもあった斎藤一こと山口次郎が就任した。山口は甲陽鎮撫隊に参加したものの、その後の動きは判然としないが、会津において戦功があり昇任して隊長となったとも伝えられる。 明治元年には閏四月があり、この閏四月から七月にかけて新選組は、主に白河口の戦闘に参戦している。

出版社:筑摩書房/発売:1996年/著者:相川司、菊地明

新選組事典


 

出版社:中央公論新社/発売:1999年/編集:鈴木亨

新選組事典


 

出版社:勉誠出版/発売:2003年/編集:歴史と文学の会

新選組写真全集


 

出版社:新人物往来社/発売:1997年/著者:釣洋一

新選組 将軍警護の最後の武士団


 

出版社:バベルプレス/発売:2007年/著者:ロミュラス ヒルズボロウ

新選組証言録 「史談会速記録」が語る真実


 

出版社:PHP研究所/発売:2004年/監修:山村竜也

新選組情報館


 

出版社:教育出版/発売:2004年/編集:大石学

新選組 知られざる隊士の真影


 

出版社:新紀元社/発売:2003年/著者:相川司

新選組 知れば知るほど


 

出版社:実業之日本社/発売:1998年/監修:松浦玲

新選組人物事典 壬生狼FILE


 

出版社:朝日ソノラマ/発売:2003年/監修:加来耕三

新選組新聞


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新選組新聞編集委員会

新選組誠史


 

出版社:新人物往来社/発売:1998年/著者:釣洋一

新選組戦記


 

出版社:新人物往来社/発売:1999年

新選組全史(上)


 

出版社:新人物往来社/発売:2004年/監修:菊地明

新選組全史(中)


 

出版社:新人物往来社/発売:2004年/監修:菊地明

新選組全史(下)


 

出版社:新人物往来社/発売:2004年/監修:菊地明

新選組全史 幕末・京都編


 

出版社:角川書店/発売:2001年/著者:中村彰彦

新選組全史 戊辰・箱館編


 

出版社:角川書店/発売:2001年/著者:中村彰彦

新選組全史 天誅VS.志士狩りの幕末


 

出版社:講談社/発売:2004年/著者:木村幸比古

新選組戦場日記 永倉新八「浪士文久報国記事」を読む


 

出版社:PHP研究所/発売:1998年/著者:木村幸比古

新選組戦場日記 浪士文久報国記事


 

出版社:中経出版/発売:2013年/著者:永倉新八

新選組・斎藤一の謎


 

出版社:新人物往来社/発売:1998年/著者:赤間倭子

新選組 時代に翻弄された誠


 

出版社:文芸社/発売:2003年/著者:小森宏

新選組十番組長 原田左之助


 

出版社:新人物往来社/発売:2009年/著者:菊地明

新選組随想録 一五〇年の時をへて蘇る語り継がれる幕末剣士集団の実像と秘話


 

出版社:歴研/発売:2005年/編集:日本随想録編集委員会

新選組大事典


 

出版社:新人物往来社/発売:1999年/編集:新人物往来社

新撰組隊士、宿命の日


 

出版社:廣済堂出版/発売:2014年/編集:歴史時代作家クラブ

新選組隊士録


 

出版社:新紀元社/発売:2011年/著者:相川司

新選組隊士伝 蒼き群狼、その生と死の断章


 

出版社:学研/発売:2003年

新選組大全史


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年

新撰組旅のハンドブック ゆかりの地を訪ねて


 

出版社:リベラル社/発売:2010年/編集:ウエストパブリッシング

新選組多摩党の虚実 土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎


 

出版社:彩流社/発売:2004年/著者:神津陽

新選組超読本


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年

新撰組“散りざま”列伝


 

出版社:宝島社/発売:2013年

新選組と会津藩 彼らは幕末・維新をどう戦い抜いたか


 

出版社:新紀元社/発売:2004年/著者:星亮一

新選組と沖田総司 「誠」とは剣を極めることなり


 

出版社:PHP研究所/発売:2002年/著者:木村幸比古

新選組と出会った人びと もうひとつの幕末維新史


 

出版社:河出書房新社/発売:2004年/著者:伊東成郎

新選組と幕末の京都


 

出版社:ユニプラン/発売:2003年/編集:ユニプラン編集部

新撰組と土方歳三 なぜ最強集団


 

出版社:徳間書店/発売:2013年

新選組と土方歳三 亡びゆく幕府に殉じた蒼き男たちの軌跡


 

出版社:双葉社/発売:2010年

新選組 永倉新八外伝


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:杉村悦郎

新選組永倉新八のひ孫がつくった本


 

出版社:柏艪舎/発売:2005年/著者:杉村悦郎、杉村和紀

新選組流山隊 新選組と流山完全ガイド


 

出版社:アーテック/発売:2004年/著者:松下英治

新選組流山顛末記


 

出版社:新人物往来社/発売:2009年/著者:松下英治

新選組 謎とき88話


 

出版社:PHP研究所/発売:2013年/著者:菊地明

新選組浪華騒動記


 

出版社:文芸社/発売:2003年/著者:飯田健

新選組 二千二百四十五日


p.43 後から建て増したといってもよさそうな、イヤに細長い、女中部屋にしては広すぎる、得体のわからぬ一室があったが、それがあとで沖田、永倉等の食客部屋であることが判った。 この目撃談にどこまで信がおけるかはわからぬものの、おそらく試衛館道場の内部に言及した、唯一の記録ではないかと思われる。「得体のわからぬ一室」にひしめいていた沖田総司や山南敬助らは、近藤の意向を受け、あるときは剣術教授に武州多摩地域の門弟たちに出張教授を行い、またあるときは、借金の使者に立つこともあったのである。

p.58 浪士たちの中に、こんな一団がいたという。 鹿皮紋付、割り羽織着用いたし候者およそ二十人ほど。これは水戸天狗連のよし。(『東西紀聞』) 水戸天狗党のメンバーと噂された、鹿の皮の紋付を着た集団の中に、一人の人物がいた。芹沢鴨である。

p.142 元会津藩士の山川大藏(浩。維新後、陸軍少将。男爵)が後年記した『京都守護職始末』には、こんな一文がある。 新選組、規律厳粛、士気勇敢、水、火といえども辞せず。 畏敬の念すら含んでいそうである。その思いこそは、彼らを支えた大藩の誰もが抱いていた認識だったかもしれない。

p.155 『会津藩庁記録』には、新選組では、もし、松平慶永の下に配属された場合は「きゃつ天誅を加え候ほか、これ有るまじき」などと、隊士たちが相談していたという、物騒な風聞も伝えられている。それほどまでに、彼らにとって松平容保は、絶大な存在だったのである。

pp.266-267 『新選組始末記』は、武田の死を御陵衛士結成半年前の慶応二年九月のこととし、武田は薩摩藩への接近を意図していたため、新選組は斎藤一と篠原泰之進に伏見の同藩邸へ送行させ、途中で殺害させたと書いている。だが、武田が死亡したとき、斎藤と篠原は御陵衛士の一員となっていた。

pp.275-276 天満屋にいた紀州藩士の三宅精一は、こんな回想を遺している。 新選組が、楼上にて剣戟鳴閃の間にも、常に注意を三浦に注ぎたるの敏捷と、また期せずして一度に戸外へ飛び出し、敵をおびき出したる頓策は、よくもかく一致して職務を尽くしたることと、くれぐれ感じ入りたり。(『南紀徳川史』) 日ごろ、本能と化すまで体に叩きこまれてきた抜群のフォーメーションが、第三者にとっていかに驚嘆に値したものかが、談話からうかがえる。

出版社:新潮社/発売:2007年/著者:伊東成郎

新選組日記


p.76 新選組の武名を轟かせた事件が世にいう“池田屋騒動”である。元治元年(一八六四)六月五日の出来事だった。

p.105 慶応元午年九月十三日事件(慶応二年九月十二日の誤り)。 この事件は世に言う“三条制札事件”である。

pp.118-119 慶応二年一月、伊東は近藤とともに長州へ下り、その際、持論の勤王論を唱え、九月には尾張へ出張後に近藤、土方らと意見の対立を激化させたという。翌三年一月、西国遊説に出かけた時、伊東は宇田兵衛と名乗り新井忠雄らと九州へ赴いた。この時点で新選組からの離脱が鮮明になった。近藤との対談で離脱の理由に「薩長に間者(スパイ)に入るため新選組に居っては迷惑もかかるゆえ」と近藤の承諾を求めた。
この時、近藤は快諾したような態度をみせ、実は斎藤一を間者に送り込み、伊東らの行動を一部始終探らせたのである。
伊東は三月二十日、御陵衛士の高台寺党を結成し、新選組から離脱した。


p.130 慶応三卯年十二月七日之事。 本記事は天満屋事件のことである。この事件は、紀州藩士三浦休太郎が、六条油小路花屋町にある天満屋で陸奥陽之助(宗光)、中井庄五郎、松島和助、関雄之助ら二十人に襲われた事件である。 この背景には、慶応三年四月のいろは丸事件での紀州藩と海援隊の対立がある。いろは丸事件は、紀州藩が賠償金を支払うことで決着がつく。しかし三浦はこれに不満を持ち、龍馬を斬ったという風説が流れる。これに怒った陸奥ら海援隊士は、三浦暗殺を計画する。身の危険を感じた三浦は紀州藩を通じて新選組に護衛を依頼した。三浦を護衛した隊士は副長助勤斎藤一、調役大石鍬二郎、宮川信吉、中村小二郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎の七人である。

p.216 八月二十八日、大和十津川郷士中井庄五郎と前岡力雄ら数名が、三条制札場にあった朝敵告示の高札を鴨川へ投げ棄てる事件がおこった。九月二日、再び高札をかかげるといたずらされたため、幕府に対する挑戦と受け止め新選組に慶応二年(一八六六)九月十二日、出動命令を出した。それとも知らず同夜、土佐の藤崎吉五郎、松島和助、宮川助五郎、安藤鎌次、沢田屯兵衛、岡山禎六、本川安太郎、中山謙太郎の八人が高札を取ろうとした。現場を見つけた新選組と大乱闘となった。

出版社:PHP研究所/発売:2003年/編者:木村幸比古

新選組日誌(上)


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:菊地明、山村竜也、伊東成郎

新選組日誌(下)


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:菊地明、山村竜也、伊東成郎

新撰組の歩き方 来て、見て、さわってSHINSENGUMI


 

出版社:光栄/発売:1996年/編集:光栄出版部

新撰組のことがマンガで3時間でわかる本


 

出版社:明日香出版社/発売:2003年/著者:津田太愚

新選組の真実 幕末の最強集団


 

出版社:PHP研究所/発売:2004年/著者:菊地明

新選組の新常識


 

出版社:集英社/発売:2011年/著者:菊地明

新選組のすべて


 

出版社:新人物往来社/発売:2004年/編集:新人物往来社

新選組の青春 壬生と日野の日々


 

出版社:青幻舎/発売:2003年

新選組の大常識


 

出版社:ポプラ社/発売:2003年/監修:矢口祥有里

新選組の謎 思わず人に話したくなる


 

出版社:中経出版/発売:2007年/著者:中見利男

新撰組の謎 <徹底検証>


 

出版社:講談社/発売:2003年/著者:加来耕三

新撰組の謎と歴史を訪ねる


 

出版社:ベストセラーズ/発売:2009年/著者:山村竜也

新撰組の光と影 幕末を駆け抜けた男達


p.49 筆者はかねてから、清河八郎派から分かれた近藤一派が、京都に残留し、守護職に微意を開陳したとき、なぜ、会津藩がやすやすとその申し出を了とし、この浪人集団を保護したのか疑問に思っていた。 過日、松平容保から四代目にあたる当主松平保定氏にお目にかかり、この点、うかがってみた。松平氏は、「近藤勇とは、江戸時代から知りあいだった、と聞いています」と答えられた。つまり、江戸の試衛館時代にも会津藩は近藤たちの面倒をみていたというのである。それが事実なら筆者の積年の疑問は解ける。

p.52 新撰組の損失は死傷三(奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門)だけだ。藤堂と永倉が傷を負ったともいう。 おもしろいのは、残敵や逃亡浪士捕縛に当たった会津、彦根、桑名、淀の各藩が、それぞれ五人、四人、二人と死者を出し、手負いにいたっては会津三十四、彦根十五、他それぞれ少々と損失をこうむっていることだ。この点では、新撰組はあきらかに、“職業殺人屋”といえる。

p.150 「え、塾頭? 内弟子の私がですか」 さすがに惣次郎はびっくりした。近藤はにこにこしてうなずく。 「そうだ。それだけでなく、これからは私といっしょに多摩へ出稽古にも行ってもらう」 「……!?」 惣次郎の胸は感動でうずいた。今日までの暗い生活は、近藤勇によって一挙に粉砕された。沖田惣次郎の二十四時間をおおっていた灰色の暗い雲を、近藤はいきなりひき裂いて、その裂け目からパッとまばゆい陽光をさしこませたのである。

出版社:学陽書房/発売:2003年/著者:童門冬二

新選組の舞台裏


 

出版社:新人物往来社/発売:1998年/著者:菊地明

新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか


 

出版社:実業之日本社/発売:2011年/著者:大野敏明

新選組は京都で何をしていたか


 

出版社:KTC中央出版/発売:2003年/著者:伊東成郎

新選組 幕末に咲いた滅びの美学


 

出版社:河出書房新社/発売:2001年

新選組100話


 

出版社:中央公論社/発売:1996年/著者:鈴木亨

新選組101の謎


 

出版社:新人物往来社/発売:1993年/著者:菊地明

新選組武士道 「退くな!」の美学


 

出版社:燃焼社/発売:2003年/著者:田原八郎

新選組銘々伝(1)


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新人物往来社

新選組銘々伝(2)


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新人物往来社

新選組銘々伝(3)


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新人物往来社

新選組銘々伝(4)


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新人物往来社

新選組奮戦記


 

出版社:PHP研究所/発売:2013年/編集:永倉新八

新選組、敗れざる武士達


p.67 ドラマや映画などでは清河が浪士組全員を呼び出して討幕の演説をし、それに芹沢鴨一派と近藤勇ら試衛館の一派が反発するといった具合に描かれることが多い。確かにそのほうが派手だが、これは史実とは違う。 新徳寺には浪士組全員が呼び出されたわけではなかった。同席したのは主なメンバーだけで、芹沢や近藤がその場にいた可能性は高いが、試衛館の他の面々はいなかったと考えたほうがよさそうだ。また演説の内容だが、必ずしも討幕をよびかける内容ではなかったようだ。もっと巧妙だったということだ。

p.71 水戸藩主だった斉昭が推したのは息子の慶喜であり、芹沢鴨は井伊直弼暗殺の一派に所属していたのである。 芹沢鴨の浪士組参加について、「水戸流の尊皇攘夷思想は幕府と天皇を共に敬う思想であり、したがって芹沢が清河の浪士組募集に応じたことは少しも不自然ではない」という論を見ることがあるが、井伊直弼暗殺の一派にいた人間が、果たして家茂を警護したいと思うだろうか?

p.73 霊山歴史館の木村幸比古氏は、新見錦銘で霊山護国神社に祭神として加えられていることや、新見錦の名前が長州側の書簡に残されていることから、新見は長州藩の間者(スパイ)だったのではないかと書いている。

pp.86-87 事件後、近藤は芹沢と連名で即日この件を大阪西町奉行に届け出ている。 「何者とも知れぬ五、六十人が喧嘩をしかけてきたので懲らしめのため斬り払った。即死四、五人。手負い二、三十人。もし再び押し出してきたら、今度はことごとく斬り捨てる」と述べている。 強い、としか言いようがない。

p.129 池田屋騒動の時には、沖田は加賀清光を使用した。正式には、「加州金沢住長兵衛藤原清光」と言う。俗に乞食清光とも言う。出来がよく実践的な刀だが、清光は一種の偏屈者で、乞食小屋に出入りして鍛刀したと言われている。そういう刀を選んだ沖田自身も、ちょっと変わっていたのかもしれない。

pp.140-141 最初は近藤勇と沖田総司の二人だけで二十人の志士達と斬り合ったのだ。長州側だって一流の剣客揃いである。これで殺されなかったのだから、改めて言うまでもないことかもしれないが、近藤も沖田も並大抵の剣士ではなかったのだ。そういう凄腕が、他にも土方歳三、井上源三郎、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、斎藤一と揃っていたわけだから、新選組はメチャメチャ強かった。これは尋常な集団ではない。

pp.160-161 甲子太郎が言う「大開国大攘夷」とは、外国に迫られたから開国するのではなく、天下公道、国家百年の計に基づいて自ら開国しようという考え方である。それを挙国一致で、争うことなく実現しようとしたのである。 伊東甲子太郎の思想が薩長と違って優れていたのは大きく二点、武力に依らない挙国一致内閣の実現と、自ら率先しての開国だ。そして「大攘夷」とは、その上で諸外国と対等な国交を目指すということである。

pp.166-167 商家に押し入った強盗と自ら斬りあい、報奨も受けた岩城升屋事件を最期に、山南の詳細な活動は記録から途絶えてしまうのである。 几帳面だった山南が多摩に年始の挨拶状を出すのが遅れたり、多摩からの旧友が屯所に訪ねてきても面会を拒否したりしている。 考えられる可能性を、研究者の方々がいくつかの仮設として述べておられる。 岩城升屋で使われた刀の詳細な押し型が多摩に送られているが、激しく欠損した生々しい血刀の状況から、この時に山南はかなりの深手を負ったのではないかという説。しかもそれは剣士としては致命的な傷で、新選組のお荷物になることを気に病んでいた。

p.171 山南敬助という男は、思想こそ伊東甲子太郎にきわめて近いものを持っていたにせよ、そのメンタリティは近藤勇や土方歳三に限りなく近かったのだ。彼もまた試衛館流の「信義」や「誠」を裏切ることができなかったのである。それが伊東甲子太郎と行動を共にしなかった理由だろう。 土方歳三は、「春の月」の清らかさを思い、密かに涙を流しただろうと思う。 近藤勇は山南敬助が亡くなった後は、二度と「尊皇攘夷」などと口にすることはなかったと言われる。山南敬助の死と同じ質と量をもって自らの生を貫かねば、山南に対しての礼を失するからである。

p.175 奥羽戦争で官軍と戦うことになる佐幕の南部藩が、徳川直参となった後の新選組隊士に切腹を申し付けられるわけもない。 史実としては、吉村貫一郎は鳥羽伏見の戦に軍監として参戦し、銃弾を受けて戦死したのである。遺体不明、享年二十九であった。

出版社:ダイヤモンド社/発売:2004年/著者:山川健一

新選組余聞史


 

出版社:新人物往来社/発売:1989年/著者:高木たかし

新選組を歩く 幕末最強の剣客集団その足跡を探して


 

出版社:光人社/発売:2011年/編集:星亮一、戊辰戦争研究会

新選組を探る


 

出版社:潮書房光人社/発売:2013年/著者:あさくらゆう

新選組を旅する


 

出版社:ベストセラーズ/発売:2012年/編集:一個人編集部

新選組!! 土方歳三最期の一日 メイキング&ビジュアル完全ガイドブック


 

出版社:扶桑社/発売:2005年

「新選組」がゆく


p.124 元治二年(一八六五。四月に慶応と改元)が明けてすぐ起きた。

pp.124-125 一月八日のことである。同郷のよしみでよく道場に出入りする松山脱藩の谷川辰吉という者が、万太郎に情報をもたらした。南瓦町のぜんざい屋・石蔵屋に、不審な浪人者が数人潜伏しているというのである。 ぜんざい屋の主人・政右エ門は、本名を本多大内蔵という侍で、もと武者小路家の家臣だった。勤皇倒幕運動に身を投じるため浪人し、ぜんざい屋に化けて志士たちと交流していたのだ。この頃、土佐脱藩の浪士たちによって、大阪焼き討ち計画が進められていた。大阪を混乱に陥れて、幕軍の長州征伐を阻止しようというのである。

出版社:KKベストセラーズ/発売:2003年/著者:立石優

「新選組」全隊士録


 

出版社:講談社/発売:2003年/著者:古賀茂作、鈴木亨

「新選組」の事情通になる!


 

出版社:PHP研究所/発売:2003年/著者:岳真也

「新選組」土方歳三を歩く


 

出版社:山と溪谷社/発売:2003年/著者:蔵田敏明

「新選組」ふれあいの旅 人や史跡との出逢いを求めて


 

出版社:PHP研究所/発売:2003年/著者:岳真也

会津藩と新選組


 

出版社:歴史春秋出版/発売:2003年

浅田次郎 新選組読本


 

出版社:文藝春秋/発売:2007年/編者:浅田次郎、文藝春秋

池田屋事件の研究


 

出版社:講談社/発売:2011年/著者:中村武生

池田屋事変始末記 吉田稔麿の最期


 

出版社:新人物往来社/発売:2010年/著者:冨成博

いっきにわかる新選組


 

出版社:PHP研究所/発売:2011年/編者:山村竜也

一冊で読む土方歳三 新選組を率いた男の行動哲学


 

出版社:成美堂/発売:2003年/著者:河合敦

異聞 土方歳三の最期


 

出版社:文芸社/発売:2004年/著者:中村忠司

イラストで読む入門新選組


 

出版社:PHPエディターズグループ/発売:2003年/著者:新選組研究会「碧血碑」、黒鉄ヒロシ

英傑の日本史 新撰組・幕末編


 

出版社:角川書店/発売:2007年/著者:井沢 元彦

大鳥圭介 土方歳三との出会と別れ


 

出版社:彩流社/発売:1993年/著者:古賀志郎

沖田総司 おもかげ抄


 

出版社:新人物往来社/発売:1999年/著者:森満喜子

沖田総司伝私記


 

出版社:新人物往来社/発売:2007年/著者:菊地明

沖田総司・青春の愛と死


 

出版社:新人物往来社/発売:2001年/編集:新人物往来社

開拓使にいた! 龍馬の同志と元新撰組隊士たち


 

出版社:北海道出版企画センター/発売:2012年/著者:北国諒星

隠された幕末日本史


p.101 多摩郷士出身で天然理心流が田舎剣法ならば、薩摩の誠忠組も辺境薩摩の芋食いどもで、その示現流も田舎の薪割り剣法にすぎない。土佐勤王党なるものも、いくらか武士らしいのは武市半平太くらいのもので、あとは、足軽か郷士か、もっとはなはだしい、無頼者上がりだ。 無頼者といえば、長州の奇兵隊もそうである。下層社会の出身者である点においては新選組にひけをとらない。新選組の多摩郷士上がり云々は、目糞鼻糞を嗤うの類である。

p.110 この戦闘で、沖田総司の刀が折れたり、藤堂平助が負傷したりしたことは、近藤勇の手紙によって明らかであるが、こうしたことが、斬殺集団の謗りを受けるだろうか。京都を火の海にするという暴挙を阻止せんとするのに、 「お鎮まりください。そのようなことは、おやめください」 と、説得すべきだったというのだろうか。そんなことで、おとなしくなると思っている人は、ばかだ。

p.126 江戸でも異人斬りなどの浪人の横行に困惑していたが、京での西国浪人らの跳梁には、まったく手を焼いた。 浪人を新徴して尖兵とし、京の不満分子に当たらせようと思ったのである。毒をもって毒を制すというわけだが、もう一つの考えとして、京の浪人をも吸収することで、騒擾を鎮めることができるのではないか、とみていたともいう。

出版社:廣済堂出版/発売:1992年/著者:早乙女貢

風光る京都 沖田総司と歩く新選組の舞台


 

出版社:小学館/発売:2001年/編集:Q‐DESIGN

風を追う 土方歳三への旅


 

出版社:朝日新聞社/発売:1994年/著者:村松友視

勝ち組が消した開国の真実 新撰組の誠と会津武士道の光跡


 

出版社:かんき出版/発売:2004年/著者:鈴木荘一

完全制覇 新選組 この一冊で歴史に強くなる!


 

出版社:立風書房/発売:1998年/著者:山村竜也

聞きがき新選組


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:佐藤アキラ

紀行新選組


pp.9-10 天然理心流は「天に象り地に法り、以て剣理を究める」ことを真髄としている。遠州生まれの近藤内蔵之助長裕によって創始され、三助方昌、周助邦武を経て近藤勇昌宜に伝承された。近藤勇は天然理心流の第四代ということになる。

p.18 天然理心流の道場、試衛館の位置は二説ある。子母沢寛は小石川小日向柳町の坂の上にあり、かつて大工の棟梁が住んでいた家でそんなに広くなかったと書いている。

p.18 しかし平尾道雄のとっている牛込柳町だとすると、排気ガスによる公害で有名になったあたりだ。曙橋から薬王寺町を通って、弁天町へ抜ける外苑東通りが大久保通りとクロスするところだ。坂の上にあったという記載からいえば、どちらも符号するわけだが、道場があまり狭くてまもなく牛込の二十騎町へ移ったという伝承とあわせて考えると、牛込柳町のほうが距離からいっても該当しそうだ。

出版社:光文社/発売:2003年/著者:尾崎秀樹

教科書には載っていない! 幕末の大誤解


 

出版社:彩図社/発売:2013年/著者:熊谷充晃

京都時代MAP 幕末・維新編


 

出版社:光村推古書院/発売:2003年/編集:新創社

京都新選組案内 物語と史跡


 

出版社:創元社/発売:2004年/著者:武山峯久

京都に遊ぶ 坂本龍馬・新選組、幕末志士が愛した町


 

出版社:マリア書房/発売:2001年/著者:木村幸比古

京都の謎 幕末維新編


 

出版社:祥伝社/発売:1992年/著者:高野澄

慶応四年新撰組近藤勇始末 江戸から五兵衛新田・流山・板橋まで


 

出版社:崙書房/発売:2006年/著者:あさくらゆう

血誠新撰組 峻烈壬生浪士の忠と斬


 

出版社:学習研究社/発売:1992年

ザ・暗殺 歴史を変えた殺しの理由


 

出版社:世界文化社/発売:2012年/著者:世界文化社

最強剣豪大全


 

出版社:ダイアプレス/発売:2013年

再現・新選組 見直される青春譜


 

出版社:三修社/発売:2007年/著者:鈴木亨

坂本龍馬は新撰組だった!


 

出版社:ぶんか社/発売:2006年/著者:赤司典弘

薩摩の秘剣


pp.131-132 いろんな流派がありもしたが、自顕流のような激しか剣法はなかった。だからこそ、“薬丸自顕流はとにかく強かもの”と幕末期なんかは多くの人が一生懸命になって習うたわけです。素人で人を斬ったことのなか人でも、薬丸流を習うて新撰組に斬ってかかったら、ポソッと斬れた、というようなこともありもして、評判をとったようです

出版社:新潮社/発売:2005年/著者:島津義秀

サムライと日本刀 土方歳三からの伝言て


 

出版社:並木書房/発売:2009年/著者:杉山頴男

時空旅人 Vol.11 結成一五〇周年新選組 その始まりと終わり


 

出版社:三栄書房/発売:2012年

子孫が語る永倉新八


 

出版社:新人物往来社/発売:2009年/著者:杉村悦郎

時代考証にみる新江戸意識 大河ドラマ「新選組!」「篤姫」「龍馬伝」の実践から


 

出版社:名著出版/発売:2011年/編纂:大石学

時代小説で読む! 北海道の幕末・維新


 

出版社:亜璃西社/発売:2013年/編纂:鷲田小彌太

時代別・京都を歩く 歴史を彩った24人の群像


p.134 殺戮を繰り返し大きくなる組織の渦中にあって、それがいかに無意味なものであるか山南の中で自問があったのではなかろうか。市井で起こることごとくは人間の作り事である。山南は血塗られた日常のなかで剣以上の絶対なる力に出くわしたのではなかろうか。それは、愛する人の存在であったり、京の山景色であったり……。その中に沖田総司の存在も入っていたのではと思い巡らす。

出版社:山と溪谷社/発売:1999年/編集:山と溪谷社大阪支局

実録 沖田総司と新選組


 

出版社:PHP研究所/発売:2004年/著者:今川徳三

史伝 土方歳三


 

出版社:学習研究社/発売:2001年/編集:木村幸比古

司馬遼太郎が描いた「新撰組」の風景


 

出版社:新潮社/発売:2003年/著者:司馬遼太郎

司馬遼太郎の幕末維新(1) 竜馬と土方歳三


 

出版社:朝日新聞出版/発売:2012年/著者:週刊朝日編集部

士道残英 新選組 時代の激流に呑まれた壬生の狼


 

出版社:学習研究社/発売:1996年

写真集 新選組宝典


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:釣洋一

写真集 土方歳三の生涯


 

出版社:新人物往来社/発売:2001年/編集:菊地明、伊東成郎、横田淳

週刊 日本の100人 近藤勇


 

出版社:デアゴスティーニ・ジャパン/発売:2012年

週刊 日本の100人 土方歳三


 

出版社:デアゴスティーニ・ジャパン/発売:2012年

十二歳の戊辰戦争


 

出版社:現代書館/発売:2011年/著者:林洋海

新解 函館戦争 幕末箱館の海陸戦を一日ごとに再現する


 

出版社:元就出版社/発売:2012年/著者:兵頭二十八

真説 新選組


 

出版社:学習研究社/発売:2001年/著者:山村竜也

新撰 京の魅力 新選組、京をゆく


p.110 帰路、伏見墨染まで来たところ高台寺党の連中が一行を鉄砲で狙撃した。これが近藤の肩にあたり負傷、馬にしがみつきながら逃げた。石井と久吉は撃たれて死亡。慶喜は一報を受けるや侍医の松本良順を伏見までさし向け治療させ、さらに自用の寝具まで送った。松平容保も医者を見舞におくった。近藤勇への信頼度がいかに高かったかが想像できる。

p.117 大正四年まで生きた永倉新八には、当時、小樽新聞に寄せたインタビューをまとめた『新撰組顛末記』がある。これも確かに貴重な資料ではあるけれど、マニアの間ではちょっと疑われている部分がある。永倉新八が自分を英雄化していて、史実と違う感じがした」と過褒な評論を頂き感激した。 浅田氏がいう「永倉が自分を英雄化して」というのは『顛末記』の構成上の理由による。つまり聞き手である新聞社の筆によって、事実より劇的な表現がなされている可能性があるためである。

出版社:淡交社/発売:2001年/著者:木村幸比古

尽忠報国の輩 新撰組(上)


 

出版社:文芸社/発売:2004年/著者:石井勉

新編・新撰組流山始末 幕末の下総と近藤勇一件


 

出版社:崙書房/発売:2004年/著者:山形紘

図解雑学 沖田総司と新選組隊士


 

出版社:ナツメ社/発売:2003年/著者:河合敦

図解雑学 近藤勇


 

出版社:ナツメ社/発売:2003年/著者:菊地明

図解雑学 新選組


 

出版社:ナツメ社/発売:2001年/著者:菊地明

図解雑学 土方歳三


 

出版社:ナツメ社/発売:2003年/著者:山村竜也

図説 新選組


 

出版社:河出書房新社/発売:2004年/著者:横田淳

図説 新選組クロニクル


 

出版社:新人物往来社/発売:2008年

図説 新選組史跡紀行


 

出版社:学研/発売:2003年/著者:萩尾農

天誅と新選組 幕末バトル・ロワイヤル


 

出版社:新潮社/発売:2009年/著者:野口武彦

切腹の日本史


 

出版社:実業之日本社/発売:2013年/著者:大野敏明

閃光の新選組


 

出版社:新人物往来社/発売:2006年/著者:伊東成郎

増補新版 土方歳三


 

出版社:河出書房新社/発売:2013年/著者:伊東成郎

蒼狼の剣 グラフィックス新選組


 

出版社:PHPエディターズグループ/発売:2002年/著者:山村竜也

続 新選組史料集


 

出版社:新人物往来社/発売:2006年/編集:新人物往来社

その後の男達 新撰組後始末補記


 

出版社:新風舎/発売:2004年/著者:作田和幸

その時、龍馬は、新選組は 維新の胎動 幕末年表帖


 

出版社:ユニプラン/発売:2009年/監修:青木繁男

隊士ゆかりの屯所、寺社、古戦場、墓を巡る 新選組巡礼の旅


 

出版社:アスキー・メディアワークス/発売:2013年/編集:歴史魂編集部

多摩・新選組紀聞


 

出版社:東京新聞出版局/発売:2005年/著者:平野勝

多摩「新選組」の小道


 

出版社:けやき出版/発売:2003年/著者:清水克悦

定本新撰組史録


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:平尾道雄

「朝敵」たちの幕末維新


 

出版社:新人物往来社/発売:2012年/著者:星亮一、他

ドキュメント幕末維新戦争


 

出版社:河出書房新社/発売:2013年/著者:藤井尚夫

日本史が時系列だからわかりやすい 読む年表 幕末暦


 

出版社:実業之日本社/発売:2010年/著者:福田智弘

俳遊の人 土方歳三 句と詩歌が語る新選組


 

出版社:PHP研究所/発売:2003年/著者:管宗次

幕末維新 あの人の「その後」


 

出版社:PHP研究所/発売:2003年/著者:日本博学倶楽部

幕末維新新選組


 

出版社:新選社/発売:2003年/編集:新選社

幕末維新を駆け抜けた男たち 最期の一日


 

出版社:ベストブック/発売:2011年/著者:馬場隆明

幕末京都 新選組と龍馬たち


 

出版社:光村推古書院/発売:2003年/著者:川端洋之

幕末剣豪秘伝


p.208 普段は、どこにでもいるような好々爺に見えたが、酔うと下帯一つの裸体になって、腰の銃傷の痕をぴたぴたと叩いて得意になる癖があり、「これでもお国のために働いてきた体だ。こいつは、わしの誇りだ」と声を張り上げたという。

p.220 平山は殺されたが、平間は死んだふりをして、隙を見て逃走したとされている。その後、土方らが唯一の目撃者を追うこともせず、捜索もしていないことから、平間は手引き役であったのではないかと疑う説もある。

出版社:KKベストセラーズ/発売:2008年/監修:津本陽

幕末! 最後の剣豪たち


p.61 沖田総司、永倉新八と1、2を争う剣腕の持ち主だった三番隊隊長・斎藤一。壬生の狼と呼ぶにふさわしい容貌だったことは間違いない。一説には、身の丈5尺6寸(約170センチ、当時の男子の平均身長は約155センチ)、ヒゲを茫々と生やしていた、ともいう。一身これ肝の豺狼が幕末の京都に引き寄せられたのは運命だったのか。

出版社:宝島社/発売:2003年/編者:別冊宝島編集部

幕末散歩


 

出版社:酣燈社/発売:2013年

幕末志士の「政治力」


pp.196-197 永倉たち古手の連中は同志的結合を近藤に求めている。ということは逆から見れば、組織としては同志的結合ではなく、決まりや規律によって統率できる集まりになっていたということである。 しかし、ただ単に冷たい組織の論理だけの集まりであれば、戊辰戦争の最終局面まで組織が維持できるわけがない。 新選組は設立から四年後、全員が幕臣に取り立てられ、近藤が若年寄格になっているが、基本的には浪士上がりの一治安組織にすぎない。にもかかわらず、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、関東でも、奥羽越でも、そして北海道でも、「新選組」として戦い続けた。

出版社:祥伝社/発売:2009年/著者:瀧澤中

幕末志士の履歴書 時代劇ではわからない意外なプロフィール


 

出版社:宝島社/発売:2013年/著者:日本博識研究所

幕末志士列伝


 

出版社:講談社/発売:2013年/著者:稲荷家房之介、他

幕末・新選組雑学事典


 

出版社:リイド社/発売:2005年/著者:山村竜也

幕末新選組拾遺帖


 

出版社:新人物往来社/発売:2004年/著者:伊東成郎

幕末なるほど新聞


 

出版社:廣済堂出版/発売:2003年/著者:歴史記者クラブ幕末班

幕末の志士を支えた「五人」の女 坂本龍馬の「おりょう」から近藤勇の「おつね」まで


 

出版社:講談社/発売:2009年/著者:由良弥生

幕末流星群 日本の夜明けに燃え尽きた流れ星たちの物語


 

出版社:東京書籍/発売:2010年/著者:荒井裕介

「幕末の志士」がよくわかる本


p.39 若くしてこの世を去った土方であったが、その生き様はまさに苛烈そのもの。もはや形骸化した武士の生き様を見事に実行し、新撰組という己の拠り所を大切に守り続けた。まさに「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という言葉通りの、壮絶な人生であった。土方歳三は、己がそうなりたいと望んだ本物の武士であり、日本が生んだ最後の武士といってよいだろう。

p.186 実戦では芹沢鴨暗殺の際に、芹沢の腹心・平山五郎を原田左之助とともに斬殺している。また大阪において呉服屋岩城升屋に押し入った不逞浪士数名を、土方とともに激しい斬り合いの末に撃退したとの報告もある。出動記録は少ないが、決して弱くはなかった。

出版社:PHP研究所/発売:2008年/監修:山村竜也

箱館戦争写真集


 

出版社:新人物往来社/発売:1999年/著者:菊地明、横田淳

箱館戦争全史


 

出版社:新人物往来社/発売:2009年/監修:好川之範

藩から読む幕末維新


p.148 京内の志士たちは、ひそかに連絡をとりあってつぎのような大がかりな反撃の計画をたてた。 「祇園祭の人ごみの日をねらって、京都の町に放火して混乱を起こし、京都守護職の松平容保を暗殺し、天皇を長州にお連れする」 そして、元治元年(一八六四)六月五日にこの企てに加わったおもな者が京都の三条小橋の西がわの旅籠、池田屋にあつまっていたところに、新撰組が斬りこんだ。これが、池田屋事件である。

出版社:PHP研究所/発売:2003年/著者:武光誠

土方新選組


 

出版社:PHP研究所/発売:1997年/著者:菊地明、山村竜也

土方歳三遺聞


 

出版社:新人物往来社/発売:2002年/著者:菊地明

土方歳三、沖田総司全書簡集


 

出版社:新人物往来社/発売:1995年/編集:菊地明

土方歳三 「剣」に生き、「誠」に殉じた生涯


 

出版社:PHP研究所/発売:1993年/著者:松永義弘

土方歳三・孤立無援の戦士


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/編集:新人物往来社

土方歳三 新選組の組織者


p.139 和泉守を受領した十一代兼定は、銘も美濃二代兼定に倣って、定の中を「之」に切るようになった。 この会津十一代兼定の作柄は、身巾が広く巾に元先が無く、大鋩子で、大五ノ目刃を焼いた、新々刀風のもの、細身で中直刃を焼いた、古刀然としたもの、身巾尋常で三本杉刃を焼いた、伝統的な美濃関風のもの等あり、作域は広い。 土方歳三が、この十一代和泉守兼定を、二振使用したことは記録と現物により明らかである。

出版社:河出書房新社/発売:2002年/編集:西口徹

土方歳三 新選組を組織した男


 

出版社:扶桑社/発売:2008年/著者:相川司

土方歳三日記(上)生い立ち、上京、新選組結成、そして池田屋事件


 

出版社:筑摩書房/発売:2011年/著者:菊地明

土方歳三日記(下)新撰組副長、鳥羽伏見戦、箱館戦争、そして散華


 

出版社:筑摩書房/発売:2011年/著者:菊地明

土方歳三 熱情の士道、冷徹の剣


 

出版社:学研/発売:1999年

土方歳三 知れば知るほど面白い人物歴史丸ごとガイド


 

出版社:学習研究社/発売:2004年/著者:藤堂利寿

土方歳三 青春を新選組に賭けた鉄の男


 

出版社:プレジデント社/発売:1990年/著者:津本陽一、粕谷一希、藤本義一、他

土方歳三と新選組10人の組長


 

出版社:新人物往来社/発売:2012年/著者:菊地明、伊東成郎、結喜しはや

土方歳三の遺産


 

出版社:双葉社/発売:1993年/著者:典厩五郎

土方歳三の35年


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:菊地明

土方歳三の生涯


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:菊地明

土方歳三のすべて


 

出版社:新人物往来社/発売:1975年/編集:新人物往来社

土方歳三の日記


 

出版社:新人物往来社/発売:2000年/著者:伊東成郎

土方歳三の遺言状


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:鵜飼清

土方歳三 幕末新選組の旅


 

出版社:光人社/発売:2002年/著者:河合敦

土方歳三波濤録


 

出版社:新人物往来社/発売:2003年/著者:釣洋一

土方歳三 副長「トシさん」かく描かれき


 

出版社:メディアファクトリー/発売:2003年/編集:今川美玖

土方歳三への旅


 

出版社:PHP研究所/発売:1988年/著者:村松友視

土方歳三 洋装の“武士”として散った漢の一徹


 

出版社:学習研究社/発売:2008年

土方歳三 流転の剣


 

出版社:文芸社/発売:2004年/著者:木村伸一

土方歳三を歩く


 

出版社:新人物往来社/発売:1988年/著者:野田雅子、久松奈都子

火狼煙のはざまで生まれ変わりの勝五郎と新選組をはぐくんだ美しき多摩の山々


 

出版社:文芸社/発売:2013年/著者:叶詩満子

僕たちの好きな新撰組


 

出版社:宝島社/発売:2008年/編集:別冊宝島編集

本当は謎がない「幕末維新史」 幕府再生はなぜ失敗したのか?


 

出版社:ソフトバンククリエイティブ/発売:2012年/著者:八幡和郎

本当はもっと面白い新選組


 

出版社:祥伝社/発売:2008年/著者:山村竜也

未完の「多摩共和国」 新選組と民権の郷


 

出版社:凱風社/発売:2005年/著者:佐藤文明

夕焼け 土方歳三はゆく


 

出版社:新人物往来社/発売:1987年/著者:松本匡代

龍馬&新選組 京都幕末案内


 

出版社:ジェイティビィパブリッシング/発売:2010年

龍馬・新選組が駆けた幕末京都めぐり地図


 

出版社:ユニプラン/発売:2009年

龍馬・新選組らの京都史跡を歩く 13コース


 

出版社:ユニプラン/発売:2009年/著者:青木繁男

龍馬と新選組の京都 史跡ガイド


 

出版社:創元社/発売:2001年/著者:武山峯久

るるぶ薄桜鬼


 

出版社:ジェイティビィパブリッシング/発売:2013年

歴史群像フィギュアシリーズ 土方歳三 闇を斬り裂く非情の剣


 

出版社:学習研究社/発売:2004年/著者:横田淳、今川美玖

歴史人物笑史 爆笑新選組


 

出版社:光栄/発売:1993年/編集:シブサワ・コウ

歴史人別冊 新撰組の真実


 

出版社:ベストセラーズ/発売:2013年

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出版社:ベストセラーズ/発売:2012年

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出版社:岩波書店/発売:2004年/著者:宮地正人

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出版社:洋泉社/発売:2011年

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出版社:洋泉社/発売:2013年

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出版社:PHPエディターズグループ/発売:2003年/監修:山村竜也

BAKUMATSU! 新選組


p.76 近藤もそう。この人は写真を見ただけでもわかるが、相当に厳つい。なにせ池田屋事件の時に、真っ先に乗り込み、一人で二階に駆け上がった人である。 相手は何人かわからない。 中は今みたいに電気がないから真っ暗。 その中にこの人は飛び込んだ。 「うわっ!なんだよ、いっぱい居るじゃねェか。まいっちゃったな。ま、いいか」 ここで後ろに引かなかったから近藤はすごいし、こいつらはヤバイ奴らだと言うのである。

p.76 あの坂本龍馬が伏見の寺田屋で取り囲まれた時、なんで龍馬さんは逃げられたか、スミス&ウェッソンの六連発というブランド物のピストルのおかげでもなければ、ハダカのまま二階に駆けのぼって急を知らせたおりょうさんのおかげでもない。 取り囲んだ方が弱いだけだ。 何百人、何千人で取り囲んでもピストル一発であとは押し合い、オマエが行け、そいつを前に出せと尻込みする奴ばかりだった。 それにひきかえ日野から来た不良どもは違う。ハングリーである。毎日エサをやっているのに頭をなでようとすると噛みつく狂犬みたいな奴らである。

出版社:スターツ出版/発売:2004年/編者:BAKUMATSU! 新選組製作委員会

BLでわかる日本史 幕末編


 

出版社:夏目書房/発売:2006年/著者:鷹峰りん

FOR BEGINNERS シリーズ 新選組


p.7 私は、明治になって、板橋の刑場近くに近藤、土方の慰霊碑を建てたり 勇の後継者たちに天然理心流の手ほどきをしたりした。

p.31 総司が長男なのに沖田家を継がなかった、というのは、「長男ではなく、長子(総司の姉ミツ)が家督を継ぐ」という、東北地方に明治まで広く残っていたやり方なのかもネ

p.41 注意すべきなのは近藤グループの面々が、そもそも浪人ではないことだ。白河脱藩(?)の沖田や食客たちを除けば、みな農家の跡取りや二・三男、すなわち領民である。領主の許可なく領地を離れることなどできない。 つまり、この点からも、江川(英龍・英敏は没し、この1862年12月、英武の代になっている)の了解があったとみるべきなのだ。

p.60 1864(文久4)年正月、鴻池家京都別邸に賊が押し入るが、巡邏中の近藤・山南が発見し、斬り捨てた。このお礼に、近藤は名刀「虎徹」(真贋については不明)を贈られている。

p.75 山崎は大阪の鍼医・林五郎左衛門の子だといわれ、香取流棒術の使い手である。

p.80 金15両が土方隊で池田屋包囲に回った面々で、ここに近藤周平も入っている(したがって勇の周助宛ての手紙はウソ)。

p.93 佐久間象山と交わり、秋山佐蔵と歓談していた近藤が、欧米の優位と、開国の必要に無理解なはずはない。それでもこうして再確認に行き、丁寧な謝辞を述べる。その結果、良順を新選組の支援者にしてしまう。私たちは近藤のこうした姿勢を再評価する必要がありそうだ。

p.95 京に住む佐久間象山と近藤勇とを引き合わせたのは誰だろう。京都の江川家臣団、それも家臣団のトップである柏木総蔵だったのではないか。

p.113 自分のことをめったに話さぬ謎多き人物だが、晩年、藤田五郎と名を変えてからも、多摩の天然理心流門人や縁者と交流していたことから見ても、斉藤は一点の曇りもなく、近藤が信頼を寄せ続けた同士であったといっていい。

p.120 大石は京での応募者だが、浪士組上洛以前、日野に住んだことがあり、佐藤邸の普請を手伝ったこともある元大工(出身は一橋家の家士)だ。

p.134 甲府城は幕府手の内の城。戦に出るのではなく、接収の手続きに行くのである(甲府城乗っ取り、というのは不当な表現)。したがって「甲陽鎮撫隊」と名付けた(名付け親は永井尚志)。朝敵・新選組ではうまくない、それだけで変名を使ったわけではないのである。 同様に、近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と名乗っているが、これも単なる変名ではない。家康公が幕府を開いたときの最大の巧臣、大久保忠世・忠隣父子と内藤正成(甥・清成が新宿百人隊結成)にちなみ、徳川慶喜が万感の思いで贈った名、これが大久保と内藤なのだ。ここからは、じゃまだから追い払った、などという解釈が出てくる余地はない。

p.135 かなりゆっくりした進軍だが、これを「故郷への凱旋気分」と非難する人がいる。 調布での近藤生家の人たちの見送り、府中・粕谷良循宅での宿泊、日野・佐藤邸での歓談などに、凱旋気分がなかったとはいえない。が、この進軍は古式にのっとったもので、援軍の合流を受け入れるためのスピードだ。

p.137 千人隊にしても菜っ葉隊にしても、命令系統を超えた緊急要請なので、近藤か土方以外のハンパな人物が交渉に当たってもダメ。結果的には土方でも、役人の命令系統を破ることはできなかったわけだ。 近藤と土方は京都で一度も戦闘場面を共有していない。これは新選組を崩壊から守る周到な配慮だ。

pp.144-145 彦五郎の赦免を取りつけるには、包囲軍と壮烈に斬りあい、討死にするわけにはいかなかったのだ。近藤が言い出したのか、土方が言い出したのかは難しいが、近藤の出頭はこうして決まったのだ。したがって土方は、近藤の責めを軽くしてもらいながら、なおかつ、彦五郎の完全赦免を取りつけるという、綱渡りを強いられていた。

p.173 新選組の擁護は薩長政権に対する挑戦とみなされ、弾圧された。だから新選組の復権も、ゆがんだ形をとらざるをえなかった。薩長が描いたパターンを受け入れ、新選組を頑迷固陋の徒として描き出すことだ。武士道や大義名分との殉死である。滅びゆく男のロマンである。 もちろん、新選組にそうした面がないわけではない。その面を強調することで、新選組の復権を実現してきた郷里・多摩の関係者の努力は高く評価すべきである。その結果、多くの資料が保存され、新選組の再検証が可能になった。しかし薩長が提供した思考パターンに乗る限り、真相は見えてこない。

出版社:現代書館/発売:2003年/著者:佐藤文明

新選組全隊士徹底ガイド


p.12 近藤勇(こんどう いさみ)局長 天保五年(一八三四)十月九日~慶応四年(一八六八)四月二十五日/武蔵国多摩郡上石原町/宮川勝五郎、勝太、島崎勇、大久保大和、剛、猛、藤原昌宜/天然理心流剣術/局長 嘉永元年十月に天然理心流近藤周助の門人となり、文久元年に天然理心流四代目宗家、試衛館道場主となる。文久三年二月、幕府の浪士組徴募に応じ上洛し、三月、壬生浪士組を結成する。同年九月の芹沢鴨一派粛清の後は、名実ともに新撰組局長となり風雲に身を投じていく。

p.15 芹沢鴨(せりざわ かも)筆頭局長 文政十年(一八二七)~文久三年(一八六三)九月十六日/水戸/下村継次、木村継次、光幹/神道無念流剣術/局長 水戸時代、水戸天狗党の活動に連なる。その間、収獄された折、「雪霜に色よく花の魁て散りても後に匂ふ梅が香」の辞世を残す。

pp.16-17 新見錦(にいみ にしき)局長・副長 天保七年(一八三六)~文久三年(一八六三)九月/水戸/神道無念流剣術/局長、副長 入隊以前より芹沢と交流、文久三年二月の浪士組募集に三番隊小頭として芹沢とともに参加して上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなった。

p.17 山南敬助(やまなみ けいすけ)副長・総長 天保四年(一八三三)~元治二年(一八六五)二月二十三日/奥州仙台/敬介、啓輔、三南啓助、三郎、三治郎、三男啓介、勇助/小野派一刀流剣術、北辰一刀流剣術/副長、総長 江戸で近藤勇と立ち合って敗れ、近藤の弟子になったと伝わる。文久三年二月、近藤らとともに浪士組に加わって上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.18 土方歳三(ひじかた としぞう)副長 天保六年(一八三五)五月五日~明治二年(一八六九)五月十一日/武州多摩郡石田村/内藤隼人、隼之助/天然理心流剣術/副長 子供のころより呉服屋での奉公、家伝薬の行商をしていたが、やがて天然理心流に入門、近藤勇と出会う。文久三年二月、近藤とともに浪士組に加わって上洛。壬生浪士組を結成する。

pp.21-22 伊東甲子太郎(いとう かしたろう)参謀 天保六年(一八三五)~慶應三年(一八六七)十一月十八日/常陸新治郡/鈴木大蔵、宇田兵衛、摂津/北辰一刀流剣術、神道無念流剣術/二番組組長、参謀、文学師範 三木三郎の実兄。江戸深川佐賀町の伊東誠一郎道場に入門、誠一郎が没した文久元年ごろ、その娘ウメの婿となり道場を継ぐ。 元治元年秋、同門の藤堂平助の勧誘により新選組入隊を決意。同年十月十五日に上洛。

p.30 沖田総司(おきた そうじ)一番組組長 天保十三年(一八四二)~慶応四年(一八六八)五月三十日/江戸/総二、惣次郎、宗次郎、藤原房良/天然理心流剣術/副長助勤、剣術師範、一番組組長 十歳前後より天然理心流試衛館道場の内弟子となる。たちまちの内にその才能を開花させ十九歳で免許皆伝となる。文久三年二月、近藤らとともに浪士組に加わって上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.31 永倉新八(ながくら しんぱち)二番組組長 天保十年(一八三九)~大正四年(一九一五)一月五日/江戸/杉村義衛、栄吉、載之/神道無念流剣術、心形刀流剣術/副長助勤、二番組組長、剣術師範 江戸の神道無念流岡田十松門下だが、試衛館に出入りしており、文久三年二月に近藤らとともに上洛し壬生浪士組を結成する。

pp.32-33 斎藤一(さいとう はじめ)三番組組長 天保十五年(一八四四)一月二日~大正四年(一九一五)九月二十八日/江戸/山口一、次郎、二郎、一瀬伝八、藤田五郎/無外流剣術/副長助勤、四番組組長、三番組組長、剣術師範、会津新選組隊長 文久二年に人を惨殺し、江戸より京都に逃亡、太子流の道場に身を寄せていた。翌三年二月、かねてよりの知己であった近藤らが壬生浪士組を結成したのを知り、これに参加する。

p.35 松原忠司(まつばら ちゅうじ)四番組組長 ?~慶応元年(一八六五)九月一日/播州/小野忠次、藤原誠忠/四番組組長、七番大砲組組長、柔術師範 入隊前は大阪で柔術道場を経営していたという。文久三年五月ごろ入隊。

pp.35-36 武田観柳斎(たけだ かんりゅうさい)五番組組長 ?~慶応三年(一八六七)六月二十二日/出雲母里/医生/竹田、観柳、観柳才、観格斎、観柳軒、徳裕、福田広/甲州永沼流軍学/副長助勤、六番組組長、五番組組長、文学師範 文久三年十月ごろ入隊。

p.37 井上源三郎(いのうえ げんざぶろう)六番組組長 文政十二年(一八二九)三月一日~慶応四年(一八六八)一月五日/武蔵日野/一重/天然理心流剣術/副長助勤、六番組組長 青年時代は兄松五郎とともに佐藤彦五郎道場に通い、剣の稽古に励んだ。やがて天然理心流近藤周助の門人となり万延元年に免許を許される。文久三年二月、浪士組に参加して上洛し、新選組の結成メンバーとなる。

pp.37-38 谷三十郎(たに さんじゅうろう)七番組組長 ?~慶応二年(一八六六)四月一日/備中高梁/備中松山藩士/藤原供国/直心流剣術、神陰流剣術/副長助勤、八番大砲組組長、七番組組長 谷万太郎、谷昌武(近藤周平)の兄。文久三年秋以降に入隊。

p.38 藤堂平助(とうどう へいすけ)八番組組長 弘化元年(一八四四)~慶応三年(一八六七)十一月十八日/江戸/藤原宜虎、南部与七郎/北辰一刀流剣術/副長助勤、八番組組長 津藩藤堂和泉守のご落胤とも称す。千葉周作の玄武館道場で北辰一刀流を学び、のちに試衛館道場に出入りするようになり近藤らと出会う。文久三年二月、近藤らとともに上洛し、壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.40 原田左之助(はらだ さのすけ)十番組組長 天保十一年(一八四〇)~慶応四年(一八六八)五月十七日/伊予松山/佐之助、左之介、忠一/種田流槍術/副長助勤、十番組組長、小荷駄雑具方、七番組組長 以前は江戸の松山藩邸で中間をしており、のちに郷里に戻り若党となった。この間にある武士との諍いから切腹を図り、一命は取り留めたがその傷痕はのちのちまで残ったという。やがて江戸試衛館に出入りするようになり近藤らと知り合う。文久三年二月、近藤らとともに浪士組に参加し上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.44 野口健司(のぐち けんじ) 天保十四年(一八四三)~文久三年(一八六三)十二月二十三日/水戸/健二、健治、健次、憲司/神道無念流剣術/副長助勤 文久三年二月、芹沢らと浪士組に参加し上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.44 平間重助(ひらま じゅうすけ) 文政七年(一八二四)~明治七年(一八七四)八月二十二日?/水戸/神道無念流剣術/副長助勤 文久三年二月、芹沢とともに浪士組に参加し上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.45 平山五郎(ひらやま ごろう) 文政十二年(一八二九)~文久三年(一八六三)九月十六日/播州姫路/神道無念流剣術/副長助勤 文久三年二月、芹沢とともに浪士組に参加し上洛。壬生浪士組の結成メンバーとなる。

p.52 大石鍬次郎(おおいし くわじろう) 天保九年(一八三八)~明治三年(一八七〇)十月十日/江戸/鍬二郎、桑次郎、鉄次郎、守親/小野派一刀流剣術/諸士取調役兼監察 元治元年十月、江戸で入隊。

p.54 川島勝司(かわしま かつじ) 生没年不詳/山城国川島村/諸士取調役兼監察、伍長 文久三年五月までに入隊。

p.55 近藤周平(こんどう しゅうへい) 嘉永元年(一八四八)五月二十日~明治三十四年(一九〇一)十二月二日/備中松山/谷周平、昌武/諸士取調役兼監察 谷三十郎、万太郎の弟。文久三年七月以降に入隊。

p.58 島田魁(しまだ かい) 文政十一年(一八二八)一月十五日~明治三十三年(一九〇〇)三月二十日/美濃厚見郡雄網村/心形刀流剣術/諸士取調役兼監察、伍長 文久三年五月以前に入隊。

p.62 山崎烝(やまざき すすむ) ?~慶応四年(一八六八)一月/京都/丞、丞、進、晋/諸士取調役兼監察、副長助勤 山崎林五郎の兄。文久三年秋以降入隊。

p.63 吉村貫一郎(よしむら かんいちろう) 天保十一年(一八四〇)~慶応四年(一八六八)一月?/奥州南部/北辰一刀流剣術/諸士取調役兼監察、剣術師範、目付 妻子五人を抱えた南部藩士と伝わる。慶応元年四月、江戸で入隊。

p.86 蟻通勘吾(ありどおし かんご) 天保十年(一八三九)~明治二年(一八六九)五月十一日/讃岐高松 文久三年六月ごろ入隊。

p.92 市村鉄之助(いちむら てつのすけ) 生没年未詳/美濃大垣/両長召抱人 市村辰之助の弟。慶応三年六月以降に入隊。

p.136 宿院良蔵(しゅくいん りょうぞう) ?~慶応四年(一八六八)一月五日/丹波亀山/良三 文久三年六月ごろ入隊。

p.149 田中寅三(たなか とらぞう) 天保十二年(一八四一)~慶応三年(一八六七)四月十五日/加賀金沢/虎蔵、正久/剣術師範 元治元年十月ごろ京坂で入隊、隊内屈指の剣客とされる。

p.164 中村金吾(なかむら きんご) 生没年未詳/備中 文久三年五月以前に入隊。同年九月二十五日、永倉新八とともに御倉伊勢武らに暗殺されそうになるが、難を逃れる。

出版社:河出書房新社/発売:2004年/著者:前田政記

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出版社:宝島社/発売:2006年/著者:芝田忠始

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